映像で追う繁栄と衰退
摩耶花壇の謎
— この廃墟が歩んだ途と、背景を探る —
設立母体と経営陣
1)摩耶花壇跡地は、かつて「摩耶山株式会社」が所有し、そこに「摩耶花壇」と名付けた木造モルタルの洋館を建てました。
2)摩耶山株式会社の設立目的は、昭和2年発行の「兵庫県名鑑」によると、その第一は「療養所」でした。
3)当会社役員の経歴を同名鑑の別頁や紳士録等て調べた結果、7名中の6名が判明し、6名中の3名が医師であることから、その思いが理解できる。
・井澤 千代松:医師、京都大学医学部 耳鼻咽喉科学会会員、論文:「耳鼻咽喉科京都臨床」Vol.3(1910) 上顎竇瀕膿症ニオケル手術的療法ニツイテ
・中井 雄也:質商、塚本、3-64 (日本紳士録・神戸地区、昭和5年版)
・大町 伴ニ:下記、中井連の実兄(親族による)
・中井 連: 内科医師、日露戦争軍医、東大医学部卒、兵庫県防疫官、東京伝染病研究所研修修了、西灘村村会議員(下記名鑑152頁による。同会社名鑑515頁の中川連 は、下記、紳士名鑑で明らかなように中井連の誤植である)
・斉藤 正之:神英社、土地家周旋管理業、永澤在住(日本紳士録・神戸地区、昭和5年版)
・清水 義壽:大阪帝国大学医学博士
論文:「結核」第9巻12号 健康獸及び免疫過敏獸に対する噴霧結核菌(微量及び大量)吸入の結果に就て: 実験的研究
摩耶花壇の沿革と背景(天上寺、ケーブル、摩耶観光ホテルとの関連)
・1925/01 /….. 摩耶鋼索鉄道開通(ケーブル、高尾-摩耶/現・虹の駅)
・1925/05 /31 摩耶駅付近に摩耶食堂開業、貸売店8戸開業(社史-六甲山とともに五十年)
・1925/09 /15 摩耶山株式会社(摩耶花壇の母体、摩耶鋼索鉄道の関連会社)設立。その経営陣
・1926/07 /22 摩耶花壇開業を神戸又新日報 が「摩耶仙境に新築/瀟洒なる建築に完備せる客室」と報道
・1926/07 /22 当日の世界情勢と国内経済を報道神戸新聞、第一面(フランス経済危機、邦貨新貨幣)
・1926/07 /22 当日の国内政治、経済(首相の政治演説を紹介) 神戸又新日報、第一面
・1926/07 /23 翌日の神戸新聞(2MB):社会面(国道武庫川大橋建設促進、阪神間の経済施策や予算)
・1929 (S5) 六甲山ホテル(阪急電鉄系)宝塚ホテルの別館として開業、旧館は2015年に閉館し<現存>
・1929/05 /15 摩耶山ホテル(現・摩耶観光ホテル)新築起工。
・1929/11 /17 同上ホテル開業。同日の神戸新聞が営業開始を報道
・1930 (S5) 摩耶ケーブル利用客数が突出。 逆に1938年には激減。ケーブル乗客数の推移
・1930/01 -11 観艦式関連の報道頻り。(<観艦式の絵葉書>、<元町通協賛風景>
・1930/09 /20 観艦式記念 海港博覧会 於、兵庫突堤/湊川公園/関西学院跡(現・王子公園)~10/30
・1930/10 /26 神戸沖観艦式写真、 朝日新聞映画NEWS :(前夜から阪神一帯、六甲摩耶山頂にまで人垣)
・1930/10 /26 有志が観艦式記念として参道補修を奉納 ケーブル利用者数の推移
・1931 (S6) 六甲ロープウエイ(登山架空索道/阪急電鉄系)開通。六甲山ホテル直下まで。<現存せず>
・1931/09 /18 <満州事変>柳条湖事件を契機に中国軍との戦闘に突入。満州を占領、関東軍の横暴開始
・1932 (S7) 六甲ケーブル(六甲越有馬鉄道/阪神電鉄系)開通。
・1932/03 /01 満州国建国、翌、1934(昭和9)年3月1日に満州帝国に(傀儡と云われる)皇帝即位。
・1937/07~ 日中戦争開始 ~1941/12
・1938/07 /03 阪神大水害 住吉川・芦屋川・大石川・生田川流域等が大被害。摩耶ケーブル1ヶ月休業。
・1941/12 /08 山本五十六は洋上機動部隊に真珠湾攻撃 命令をを打電し本格参戦。
・1941/12 /08 南方作戦開始 米、英に宣戦布告し、<マレー作戦>、<グアム作戦 ’41>などを奇襲的に
実施し予想以上の戦果をあげ、更にビルマ向けに進軍し翌年3月にラングーン占拠に成功。
・1942~44 … 戦争による観光施設としての営業を自粛。ケーブル利用者数は徐々に減少。
・1944/01 /21 摩耶ケーブルの鉄軌道を金属供出のため撤去し、営業を休止。(1955/5/7に復活)
・1944 /03 その後、ビルマ経由の<インパール作戦>やフィリピン作戦な ど長期戦で後方支援不足が露呈
・1945/08 /15 終戦。摩耶観光ホテルの営業を中止、旅館と食堂は営業継続。米将校向け施設化は廃案。
・1949~52…三階建の摩耶花壇を住居として、関係者の家族が利用。小学生の通学路は上野道。 虹の駅西の展望台下50m付近に瀟洒な建物があって西欧人の家族と10歳前後の姉妹が住んでいたと回想。
付近の <航空写真絵葉書>の解説 (摩耶観光ホテルについて・45(資料43)より (時期不明だが、別人からその付近にフランス領事の私邸があった、との情報を得て詳細調査中)
・1955/05 /07 摩耶ケーブル営業再開。ロープウエイの開業天上寺表参道の賑いが衰退。
・1960 年頃.. 三階建「摩耶花壇」を解体。廃材でバンガローと茶店を建て同名の「摩耶花壇」と命名。
・1961 …… 摩耶観光ホテル、フランス客船の調度品を客室内に転用して豪華路線で営業を再開。
・1961~67? ..二代目「摩耶花壇」の地下に売店の管理者が居住。
・1967/07 /09 集中豪雨(昭和42年7月豪雨)で摩耶ケーブルも大被害、摩耶観光ホテルは営業中止。
・1968年頃 ….二代目「摩耶花壇」も無人となり廃墟化が開始。
・1969……….. 摩耶花壇の建物、公式地図「ゼンリン」(灘区西部版)で「アキヤ」と表示(注9
・1970/3 千万弗展望台竣工。
・1974~93… 摩耶観光ホテルが「摩耶学生センター」として近隣大学の自炊型の部活動施設に転用。
・1976/01 /30 天上寺が放火により仁王門や塔頭などを除いて全焼。ケーブルのみ利用の参拝が激減。
・1995/01 /17 摩耶観光ホテル跡、阪神淡路大震災を被災。
注1)摩耶花壇が一時、医療施設として使われたとの諸説があるが、会社設立目的の第1位として掲げられているものの、医療施設として利用された確証は今のところ見当たらない。
注2)摩耶花壇の遺跡地が、摩耶山株式会社の所有地であったことから、1926年7月の新聞報道の「客室」が摩耶花壇に当たると思われる。
注3)悠久のマヤ遺跡! 歴史の道しるべを辿る(2)のHPに 大正15年7月22日付けの神戸新聞には「摩耶仙境に新築開業したる/瀟洒なる建築に完備せる客室」との見出しで、地下室を合わせ3階建ての洋館を表現している、と。 この情報を頼りに、同新聞の当日の全㌻をマイクロ画像で検索したが該当記事は見当たらなかった。(2016/6/12)。同年7月になって神戸新聞ではなく、「神戸又新日報」の同年月日の紙上に同記事を見つけた。
(引用URL集)
1)摩耶観光ホテルについて1、2、3 http://nk8513.exblog.jp/857187/
2)新小児科医のつぶやき 摩耶花壇編 http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20151021
………………………彩色編….. http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20160614
3)「悠久のマヤ遺跡!、歴史への道しるべを辿る」(2) http://www.mayasan.jp/mayalog/?p=1551
4)絶対静寂空間 [401]摩耶花壇編(1) https://www.google.co.jp/?gfe_rd=/
5)廃墟巡礼「摩耶花壇」 .. http://tomhet.doorblog.jp/archives/43224218.html
6)廃墟/摩耶花壇/兵庫県 http://ameblo.jp/373403/entry-10550339525.html
7)神戸沖観艦式 S5年YouTube https://www.youtube.com/watch?v=iNiZjUWVwS4
8)年表で見る摩耶山の歴史 ( http://small-intestine.doorblog.jp/archives/1726455.html )移転?
9)摩耶観光ホテルについて http://gem-bedizened11.rssing.com/chan-6780130/all_p1.html